ジャズ・ピアニストの山下洋輔さんが以前エッセイで書いていた罵倒語を思い出した。
イモ、サバ、ジキコ、三流、サラリーマンこれをバンマスに言われたら、クビだと言うのだ。
ジキコは乞食のことだろう。自分で何することなくお恵みを待つことの否定に違いない。
サラリーマンもそのニュアンスだろうか。
唯々諾々と組織に従う心性のことではないだろうか。
洋輔さんはバンドマンにとって、サラリーマンは複雑な思いを感じさせるものだと書いていた。
否定、羨望の両方がある、と。
その気持ちは僕にも分かる。
僕もまた似たようなことを思うからだ。
僕はサラリーマンと聞くと、直ぐに犬を思う。きっとネクタイが首輪をイメージするからだろう。
潤沢とは言えずとも、暮らすには困らない金があるとき、首輪のついた犬でなくてよかったと思う。
野良でよかった、と。
しかし明日どうしよう?という中で暮らしているときは、ご主人様から餌を貰えることを羨みもする。
野良の自分を恨んでしまう。
矢作俊彦+司城志朗『犬なら普通のこと』(早川書房)が上梓された。
暑熱の沖縄。ドブを這い回る犬のような人生。もう沢山だ―ヤクザのヨシミは、組で現金約2億円の大取引があると知り、強奪計画を練る。金を奪ってこの島を出るのだ。だが襲撃の夜、ヨシミの放った弾は思いがけない人物の胸を貫く。それは、そこにいるはずのない組長だった。犯人探しに組は騒然とし、警察や米軍までが入り乱れる。次々と起こる不測の事態を、ヨシミは乗り切れるのか。血と暴力の犯罪寓話。この小説の「犬」とは、野良犬のことなのだろうか。
それとも飼い犬のことなのだろうか。
「犬にとっては普通なこと」とは、どんな汚いことでも飼い犬ならご主人様の言いつけなら当然という意味か。
野良ならばどんな目に遭っても仕方ないということだろうか。
そんなことを思いながら最後まで読み通した。
途中からはストーリー展開は予想できる小説だった。
でも、それは決して否定ではない。
寧ろどんな風に、この悲劇をまとめ上げるのか、救うのか…と思いながら読んだ。
矢作の作品だ。
虫けらみたいに踏み躙られてお終いということはないだろう。
ここで言う犬が、野良か飼い犬か、どちらだろう。
実際に小説の中でも、こんな台詞が出てくる。
「犬が噛んでいいのは飼い主の手じゃない。ドッグフードだけだって。君らはそう言いたいわけか」
「やめてくれよ。うちの国じゃ犬は大統領の娘がホワイトハウスで飼うものだ」
「いや。ここは君の国とは違う。犬はドブを這い回るんだ。やることはあまり変わらないけどね」どちらだって構わない。犬は犬だ。
大きな組織の庇護の許、食い扶持には困らないが、手を汚し続ける犬がいる。
ドブを這い回り、虫けらみたいな踏み潰されるものの、明日を夢見る犬もいる。
どちらだって犬なのだ。
そんな犬に必要なものは何だろう。
やっぱり音楽に違いない。
彼らの魂を、そして出来ることなら僕の心を慰撫する撮りの羽のような音楽が欲しい。
そんな風に思いながら、僕は本を閉じた。
登場人物の一人、エリマキは言う。
男には二種類しかいませんよ、プロと馬鹿。しかしエリマキを殺したヨシミはこう言う。
「男には二種類しかいねえよ」ヨシミは嗄れ声で言った。「死ぬ奴と笑う奴だ」プロも馬鹿も、死ぬ奴も笑う奴も。
皆、その魂が最後には平安が訪れると良い。そう思う。